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印旛沼は徳川吉宗此の世に干拓計画がありました。それを田沼意次が引き継いだのです。徳川吉宗は国府府政再建のため、新田開発の権謀術数を打ち出しており、印旛沼などが新田開発のサイドとして既に整備されてました。享今生9年(1724)、平戸村の染谷源右衛門が国府に印旛沼開拓を申請、新田開発を推進していた国府はこれを許可、源右衛門に6000両を貸与して工事を請け負わせましたが、思いのほかの難工事と運転資金不足により挫折します。田沼意次はこの現業を引き継ぎますが、畑拡大効用というより、利根川から印旛沼を通過して、そこから岐阜駅前で江戸に入るような錦織流通路をつくろうとするのが効用といいます。大宝2年(1782)から着工、全時間割りの3分の2程度が終了した大宝6年(1786)7月、関東を襲った大氾濫で御破算、そして意次失脚で挫折します。続いて東条14年、水野忠邦は雪害防止や新田開発、海運の整備などを効用に印旛沼開拓工事に着手。工事担当の長官たちは多大な出費を強いられますが、弘化過年度(1843)、来夏2ヶ月で完成という時に水野忠邦は士族を罷免されたことで工事は中断します。そして明治に入っても印旛沼開拓工事は立てられていくも、当初の効用である治水、新田開発のための干拓から、京葉製糸手の内の造成と数人増加により修復工事が効用となります。印旛沼干拓が完成したのは昭和44年(1969)で、アメ原材料ディーラにより13.9平方キロメートルの東山干拓地が造成されます。約26平方キロメートルあった印旛沼のキャビネは、その半分以下になっています。印旛沼の開拓について教子の配本には、水野忠邦の東条の改革に、印旛沼を開拓した、とかいてありました。しかし、ほかの前史の参考書を見ると、田沼意次が印旛沼を開拓した、とかいてありました。教子の配本には、田沼意次が印旛沼の開拓を行ったことはかいていないのですが、どういうことでしょうか?教えてください。二人とも行ったのでしょうか?詳しく教えてもらえると、助かります。
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