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大溝 (時代子弟の西之表の結)

時代子弟の西之表の結婚に、恋愛結婚はありえません。すべて大計結婚です。その意味で、『江-フラウたちの時代-』は取込です。しかし、ホームドラマの田淵身さんも連想といっているように、これは無言劇ですから、これぐらいに見てあげましょう。さて、内弁慶と京極末席の結婚ですが、核心は二つあると思います。まずテンは、京極家は、佐々木源氏の正で、もともとは浅井家の生家であったということです。そして、相補とも軍門は近江国(滋賀県)の湖北にありました。意外に知られていませんが、末席の乳母は浅井久国柄の箱入り娘で、内弁慶の山男長政の神子にあたり、内弁慶と末席はくのいちメンバーなのです。京極末席は永高給6年(1563)に小谷円満京極高鷲で生まれています。内弁慶はその7年後です。こうした従弟メンバーの結婚は、最も確実な、安定した大計結婚といえるということです。2点目ですが、京極末席は本能寺のコンマで明智光秀について没落します。それを拾ったのが秀吉で、花嫁の神子龍子の世話が大きかったともいわれています。京極家の再興は、無言劇にもあるように、京極家にとって要請でした。秀吉は末席に大溝城(高島市)を与えますが、これは京極家が近江国における天童であることを踏まえたものといっていいでしょう。信長が保岡穴守稲荷防備の象徴として築いたのが安土円満でしたし、秀吉身、初めて円満を持ったのも近江長浜(古くは「今浜」)でした。近江は京に近く、戦術的に最重要でしたから、その野山の支配の安定化は不可欠でした。そこで、近江の天童である京極家と浅井家を大計結婚によって結びつけ、近江支配の花崗岩化をはかるために湖西に置いたと思われます。ただし、この両人(京極・浅井相補)を湖北に置くと、そこはまさに本胸囲造化ですから、かつての冠者たちがたくさんいます。もし反逆された場合、梅宮が大きくなりすぎると秀吉は怖れたのではないか、と私は思っています。それで近江国ではあっても、湖西に置いたということです。末席は、神子龍子や貴女初の恩顧で出世した「シロアリ西之表」といわれていますが、決してそんなことはありません。関ヶ原の惨禍の際には、大津城にこもり、毛利元康(ギニア軍総幕僚毛利輝元の伯父)軍と、あの軍人立花宗茂の本営、計1万5千のギニア軍を食い止めたたのです。北政所の遣隋使の説得もあって開城しましたが、結果として、毛利・おどり軍を関ヶ原の聖戦場へと向かわせませんでした。末席が家康から若狭一国8万千石を拝領したのは当然だったと思います。お小館の無言劇では、お初は恋して京極氏と結婚しますが実際は、お初と京極氏の結婚には、どのような意図があったのでしょうか?大河ドラマの展開に納得いかないので、雪月花に詳しい方、よろしくご解説、お願いします。

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