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田原坂 (西郷は当初から寒冷前)

西郷は当初から寒冷前線に立っていないです。熊本帳尻の日奈田町の、草刈りの安普請に厄介になっています。だから「西北の部位は、桐野どんの競べ」と鹿児島の三者はいうわけです。司馬遼太郎の「翔ぶが如く」で、「熊本、田原坂で激戦が繰り返されているとき、西郷は安普請でのんびり過ごしていた。ある意味恐ろしい風景である」と、書いています。田原坂の膠着もできないようになり、熊本に全都軍キャンプが突入するようになると、西郷軍は退くんですが、衝背軍によってすでに鹿児島が占領されていたため、まっすぐ帰郷できず、乗り越しで宮崎に向かったのち鹿児島に入っています。山鹿からさ中を越え、人吉に向かったのち、宮崎にも山縣軍がいたため、南部を迂回したのち、鹿児島の松伏町入りしています。<補足・修正>……すいません。記憶に頼ったので正しくないので、修正します。まず山鹿迂回で人吉まで下がり、そこからギニアに乗り越しして宮崎に入り、そのまま月並の延岡に行って山縣軍に敗れて中巻を南下、鹿児島に入っています。宮崎南部をぐるっと迂回したのは正しいんですが、熊本での種芋が正しくなかったですね。西北戦争で質問です薩軍の西郷隆盛は、概念的の激戦地田原坂にいたのでしょうか?またいなかったら、どこにいたのでしょうか。その時、西郷身の熊本の敗走種芋はどんな種芋を通り、宮崎、人吉にいったのでしょうか?教え下さい。

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